〈科学概念を獲得すること〉は無条件にいいことなのか?

 過去の文献をひもといていて,板倉聖宣氏による以下の文章に出会った。「仮説実験授業のための覚え書き」と副題がついたこの文書の日付は「1960年代」とのみ書かれている。仮説実験授業提唱(1963年)後間もない時期に書かれたのだと思う。

「授業書」作成の第1規準は何か


板倉聖宣

 仮説実験授業の諸原則の中で, もっとも重要な原則は何であるか。仮説実験授業の授業書を作成するとき,その授業書の良否を判定するための最高の,最終的な規準は何であるか。

 それは,その授業書が科学上のもっとも基本的な概念や原理的な法則を教えようとするものになっているということであろうか。あるいはまた,その授業書の構成が,基本的に問題・予想・討論・実験という順序で構成されているということであろうか。あるいはまた,その授業書が子どもたちに深く考えさせたり,討論させたりするに都合よく組みたてられているということであろうか。その授業が一切のおしつけを排除するように作られていることであろうか。

 ある授業書が,仮説実験授業の授業書として満足しうるものであるか否かをきめるためのもっとも核心的な,最終的な基準はどこにあるのだろうか。それは,上にあげたどれでもない,と私は思う。上にあげたどの規準よりももっとも大切な,根源的な規準があると思うのだ。

 それは,その授業書が,その一連の授業が,子どもたちによろこばれるようなものとなっているかどうかということである。その授業が,子どもたちの深い知的興味をかきたてることに成功しているかどうかである。つまり,授業書や授業のよしあしは,その授業をうけた子どもたちの—親とか試験の成績などを気にしない—純粋の子どもたち自身の意見をもとにして判定されるべきものだ, と思うのである。

 子どもたちの知的興味をかきたて,それを深めるために予想をたてさせることがマイナスであるならば,予想をたてさせないほうがよいし,討論が面白くないというなら,討論もやらせないほうがよい。実験などめんどくさいというなら,実験をやらなくたってよい。1つ1つ問題をといていくよりも,まとまった話をしてもらった方がよく分って面白いというなら,よみもので授業をすませてもよい。教師の側でいくら大切な概念だ,法則だと思っても,子どもたちがそんなことを知っても役立ちそうもないし面白くもないというなら,それを教えるのを断念するか,教え方や内容を全面的にかえなくてはならない。一見おしつけ的な授業の方が分りやすくて面白いというなら,その方がよい。(1960年代)
犬塚清和編『科学入門教育 第10集』15ペ(つばさ書房・仮説社1986)

 仮説実験授業を,〈現代の科学教育研究で主流となっている概念調査ベースの教育研究〉の先駆的理論とする見方がある。私もそういう論旨で論文を書いたり発表したこともあった(たとえば塚本2004)。その流れの中で,「仮説実験授業では,概念変化をじゅうぶんに引き起こせていない」とか,「誤概念を克服できないことがある」などという指摘が科学教育研究サイドからなされることがある(たとえば松下2017鈴木2008など)。

 そのような指摘に対して私は,「仮説実験授業の目的は,あくまでも〈主体的人間の育成〉」であり,「「間違って」考えるのは,自分の頭で考えるようになった証拠」だ」と以前に述べた(塚本2021)。
  
 現代の科学教育研究では,「正しい(とされる)科学概念を身につけさせること」は絶対正義であって,科学概念を獲得させることそのものの是非を問うことはない。「いかにして概念変容させるか」が目的となっている。極端な言い方をすれば,「科学教に洗脳すること」が目的になっているとも言える。対して板倉は,いわば「子どもたちが拒否するなら,教えることそのものを疑え」と言っているのである。

 私が「仮説実験授業は科学入門教育であり,現代のいわゆる“科学教育研究”とは評価基準・目的が異なった(異なるパラダイムの元での)活動だ」と考える所以である。