美術館,博物館の特別展を見て感じたこと

 西洋美術館の「ギリシア展」,「ゴヤ展」,国立博物館の「空海展」,江戸東京博物館の「ベネツィア展」など,最近立て続けに博物館の特別展を見に行く機会に恵まれた。

 それらを見て,共通に感じたことは,「どれも展示が素人向けではない」ということである。たとえば,ギリシア展の場合,展示が「ギリシア神話」,「オリンピック」とか,あるいは「装飾品」とかにわけられている。ゴヤ展も,「自画像」とか,王族やら,風景画とかに分類されている(うろ覚えであるが)。

 同じものばかり並んでいるので,とたんに私は退屈してしまう。ところが,全体を見渡せる解説なり年表なりを見つけて,それらのテーマ毎の展示を年表に当てはめて見ると,とたんに面白くなることに気づいた。

 たとえば,ゴヤの作風が,「若くして王に認められた時代」「聴覚を失い失意の中,王族の退廃にあきれた時代」「戦争で人々の苦しみを目の当たりにした時代」など,彼の境遇によって作風がどのように変化したかに注目すると,とたんに興味深く鑑賞できるようになるのである。

 ベネツィア展のときも,経済状況が,日本の高度経済成長期,バブル経済とその崩壊と同じような過程をたどったと知り,展示物がどの時代にあてはまるかに着目しだしたら,とたんに見通しが良くなったし,ギリシア展の時も,人々の関心が神話から人間そのものにうつり,「ヒューマニズム」が定着する歴史に着目したら面白かった。

 ところが,展示はテーマ毎で年代順ではないので,ひとつひとつ,それらの年代を確認して自分の頭の中の年表に当てはめ直さなければならなかった。展示会に行くまで私には基礎知識がほとんどないので,まず,全体を見渡せる年表なり解説なりを探さねばならいが,そういう展示自体も順路のなかほどにあったりする。

 おそらく,こういう展示を企画する人たちはその道のプロであるので,そのような知識は当たり前だと思っているのだろう。しかもそのような人たちには,「ただ単に年代順に並べるのは芸がない」と感じてしまうに違いない。プロの研究者たちは,「ゴヤの肖像画」とか,「ベネツィアの住居」とか,「ギリシャの壺」といった研究分野に細分化されているに違いない。そういったプロの研究分野ごとに展示物が分類されているのではないかと想像している。

 しかし,展示会に来る多数派は私と同じような素人が過半数である。実際,「ゴヤ展」に行ったとき,近くにいたおばさん二人は,「同じような絵ばかりで飽きた」とおっしゃっていた。

 こういう一般向けの展示会ですべきことは,私らのような素人に「目の付けどころ」を教える展示ではないだろうか。これは今の科学教育とまったく同じ構造を私は感じた。科学教育もともすれば,プロの研究や研究分類をそのまま,言葉や数式をやさしく置き換えれば成立すると考えられる。しかし,本来の科学教育研究が目指すべきは,「科学を教育のために作り替える」ことである。そのためには,科学の用語,体系,構造そのものを解体し,作り替える必要があるのだと思う。

 畑違いの美術などの分野でも全く同じ構造があるのだろう。私たち素人がたのしめる美術教育や啓蒙ができる優れた仕事をする人はほとんどいないか,いてもほとんど評価されていないのではないだろうか。どの分野でも教育研究,啓蒙の仕事はまだまだ立ち後れている。しかし,それだけ,教育研究にはすべき仕事がたくさんあるということだろう。